いろんな兼ね合いで、このごろ嫌になるほどおカネのことばかり
考えなければならなくて、ずっとピリピリしていた。
もうおカネの計算に追われるのが嫌だ。焦る。苦しい。
そんななかで、毎日少しずつ「新堕落論」を読んでいって、
どの章も、とても豊かな思索の時間をすごすことができた。
「おまえはどうなんだ?」と突き付けられる部分も多く、
私はつくづく小粒で甘っちょろくて情けない人間だなと恥じた。
ガス暖房でぼわんと淀んだ空気の部屋の中で、窓を開け、
おもての冷えた空気を入れるような……身震いもするけれど、
必要な行為で、そして新しい空気に心がスンと立つような読書だった。
こざかしいルサンチマンに甘えて、座り込む安堵感を欲しがる心理は
自分の中にも疼くことがある。いつのまにか自分自身の本音まで
黙らせて、欺瞞に突っ走るから、よくよく胸に手を当てて自覚しなきゃ
ならない。
シュンペーターのイノベーション理論には、家族動機・共同体の必要性が
セットになっているというところは、特に今の日本でもっと議論されて
良い部分なんじゃないかと思った。
利潤を追い求めるあまり、著名な経済学者の論考から、その時の潮目
によって都合の良い部分だけを引っ張り出して利用してしまうのは、
人間の欲望のなせる業で、それこそまさに「堕落」なのだろうけど…
合理主義一辺倒で資本主義を運用してしまうと、
投資家の欲望を満たすために、大衆の欲望を作り出して食い荒らすこと
になるし、そうなると、やっぱり枯渇・荒廃するまで欲望が搾り取られ
てしまい、行きつく先は官僚化された社会になってしまう…。
最近、第一次世界大戦後の疲弊しきったドイツに生まれた、
秩序自由主義(オルドヌンクリベラリズム)についての論考を読んだ
ばかりだったので、全体主義に走っていくその後の姿を思うと、
背筋に寒いものが走った。
ケインズのアニマルスピリットも、決して合理的な数式で割り切れる
ようなものではないし、それが衰えないようにする土壌が必要なもの
なのに、曲解して、利用されていたりする。
ケインズは、大衆の動物的な心理の揺れが、巨大な渦となって、
経済(株価)を一気に動かしてしまう不安定さにも言及している。
自然発生するような、非合理なものを軽く見てはいけないし、
取り除くことも不可能だからこそ、その時の状態を把握する視野と、
バランス感覚が必要なんだと思う。
その視野やバランス感覚を養えるだけの社会になっているだろうか…?
しかし、近代合理主義と徹底的に“見える化”されている社会のなかで、
「説明のつかないことは受け入れない」
「この説明が正しいのだ、そうでないものは間違っているのだ」
という短絡脳に、無自覚なまま陥ってしまう人が増えすぎてしまって
いるのだろう。
「我思う、ゆえに我あり、こんなに我思ったんだから、我正しいなり」
「よくわからないがなんか凄い誰かが思ったらしい、ゆえにそうであり」
みたいな。
表面からは見えていないもの、決して可視化できない感覚、
一筋縄ではいかない、膨大に広がる人間という物語を、
理解もできないし、その一端がちらりと見えたとしても、
それを受け止めるだけの度量が養われない、無自覚な堕落社会。
その一員である私は、せめて己の恥の凄まじさを自覚しよう…。
そういえば、太宰治全集、せっかく本棚に並んでるのに、
読みたい話のつまみ食いしかしてない状態だ。もったいないな。